大阪高等裁判所 昭和54年(ラ)314号 決定 1979年9月05日
抗告人 ダイハツ工業株式会社
相手方 棚池正伸
主文
原決定の内抗告人に対し賃金台帳の提出を命じた部分を取消す。
相手方の本件申立の内賃金台帳の提出命令を求める部分を却下する。
抗告費用は、相手方の負担とする。
理由
一 本件抗告の趣旨および理由は、別紙のとおりである。
二 当裁判所の判断
1(一) 相手方は、本件証拠保全の申立において、抗告人作成保管にかかる昭和四一年五月一六日以降昭和五四年五月三一日までの労働基準法所定の賃金台帳の内、原決定添付目録(一)、(二)記載の者等に関する部分について提出命令を求めているところ、右賃金台帳作成の法的根拠、記載事項、作成の目的等は、原決定認定(同決定二枚目表九行目「二賃金台帳は、」から同裏一行目「作成されるものである」まで。)のとおりである。
(二) そこで、本件抗告理由の中心をなす、本件賃金台帳が民訴法三一二条三号後段の文書に該当するか否かについて判断する。
(1) 民訴法三一二条後段にいう「法律関係」とは、もともと契約関係を前提として規定されたと解されるから、そこにいう法律関係につき作成された文書というのも、当該法律関係そのものを記載したものに限られないとしても、その成立過程で当事者間に作成された申込書や承諾書等当該法律関係に相当密接な関係を有する事項を記載したもののみをいうと解するのが相当である。
現行民訴法下においては、当事者が自己の手元にある証拠を提出するか否かは、原則として、当該当事者の自由であり、文書についても、これを法廷に提出して当該文書を相手方ひいては一般公衆の了知するところとさせるか否かの処分権は、一般的には、右文書の所持者に専属するところ、民訴法三一二条は、右原則に対する例外として、挙証者と文書所持者とが、その文書について同条所定の特別な関係を有するときにのみ、挙証者の利益のため、当該文書の所持者の右処分権に制ちゆうを加えようとするものと解すべきである。しかるとき、民訴法三一二条三号後段にいう「法律関係」をもつて、当事者間のあらゆる法律的関係に関して何等かの意味で関係のあるもの一般を指称するものと解すると、挙証者が、文書の所持者を相手方として訴訟を提起している場合には、当該訴訟で挙証者が文書所持者に対して主張している権利が認められるか否かという法律関係が両者間に必ず存在することになるから、当該文書に挙証者に利害関係のあることが記載されていれば、それだけで、挙証者は常にその提出を求め得ることになり、およそ現行民訴法が予定しているところと異なる結果を生ぜしめることになる。
よつて、民訴法三一二条三号後段所定の文書についても、前叙の如く、これを限定的に解するをもつて相当とする。
(2) 本件賃金台帳の記載事項等は前叙認定のとおりであるところ、右認定にかかる、右賃金台帳の記載事項からするならば、右賃金台帳は、抗告人と相手方との法律関係そのものを記載した文書にも、その成立過程で当事者によつて作成された当該法律関係に相当密接な関係を有する事項が記載された文書にも、該当しないというべきである。
(三) なお、本件賃金台帳が民訴法三一二条三号前段の文書に該当するか否かについて付言する。
(1) 民訴法三一二条三号前段にいう、挙証者の利益のために作成された文書とは、身分証明書や遺言書のように、当該文書により挙証者の地位、権利および権限を直接証明し又は基礎づけるために作成されたものをいうと解するのが相当である。
(2) 賃金台帳作成の目的、その記載事項等は前叙認定のとおりであるところ、右作成の目的、および使用者が労働基準法一〇八条、一〇九条によりその作成、保存を義務づけられ、労働基準監督官が同法一〇一条によりその提出を求めることができるとされているのも、国の監督機関がその監督権を行使するためのものであつて、労働者にその地位等を右賃金台帳によつて証明させること等を目的とするものでない点、を合せ考えると、右賃金台帳は、民訴法三一一条三号前段の文書に該当しないと解するのが相当である。
よつて、本件賃金台帳は、右法条号前段の文書にも該当しないというべきである。
(四) 叙上の認定説示から、本件賃金台帳は、いずれにせよ、民訴法三一二条三号の文書に該当せず、抗告人は、右賃金台帳の提出義務を負うものでない。
2 以上の次第で、本件証拠保全の申立の内本件賃金台帳の提出命令を求める部分は、却下すべきであつて、原決定の内抗告人に対し右賃金台帳の提出を命じた部分は、これと結論を異にし失当であり、本件抗告は理由がある。
よつて、原決定の内抗告人に対し本件賃金台帳の提出を命じた部分を取消して、相手方の本件証拠保全の申立の内右賃金台帳の提出命令を求める部分を却下し、抗告費用を相手方に負担させることとして、主文のとおり決定する。
(裁判官 大野千里 岩川清 鳥飼英助)
(別紙)
抗告の趣旨
一、原決定のうち抗告人に対し賃金台帳の提出を命じた部分(主文一、2、)を取り消す
二、相手方の申立のうち賃金台帳の提出命令を求める部分を却下する
三、抗告費用は相手方の負担とする
との裁判を求める。
抗告の理由
一、原決定はその理由として、「賃金台帳は、申立人と相手方との間の法律関係に付き作成された文書ということができる。」と述べている。しかしながら「賃金台帳」は民事訴訟法第三一二条第三号後段の文書に該らない。
二、同法第三一二条第三号後段にいう「挙証者と文書の所持人との間の法律関係に付き作成せられた」文書とは、当該法律関係それ自体を記載した文書のみならず右法律関係に関係のある事項を記載した文書をも含むのであるが、文書の所持人が自己使用のために作成した文書はこれに該らないとするのが、判例通説のとる立場である(禀議書に関する仙台高裁昭和三一年一一月二九日決定・下民集七巻一一号三四六〇頁などがあり、原決定も一般論としては、そのことを認めている、菊井・村松著「民事訴訟法II」三七九頁など)。そして、本件提出命令の対象とされている賃金台帳につき、既に大阪高裁昭和四〇年九月二八日決定(判例時報四三四号四一頁)において、「賃金台帳は使用者が各労働者について、基本給や労働日数など賃金計算の基礎となる事項および賃金の額を記録しておく台帳であり、本来使用者がこれらの証拠を保存し、その額を把握するための資料とすることを目的として作成されるものであつて、労働者の地位、権利および権限を証明しまたは基礎づけるために作成されるものということはできない。」と説示されており、さらに、使用者に賃金台帳の作成、保存を義務づけている労働基準法の規定についても、同決定は、「なお、労基法一〇八条によつて、使用者に賃金台帳の作成保存の義務が課せられるに至つたが、これによつて賃金台帳は、国の監督機関において労基法の規定が忠実に守られているかどうかを把握するための一つの資料としての役割をも果すようになつたとはいえ、労働者に対し、その地位、権利、権限を明らかにするためのものになつたということはできない。」と正当に説示しているのである。
この点に関し、原決定は使用者に賃金台帳の作成、保存を義務づけている労基法の規定を根拠に、賃金台帳が労働者の権利関係に関する証拠を保全し労使紛争を予防するためにも作成されるものであるが故に民訴法第三一二条三号後段文書とするものであるがこの論旨は不当である。原決定のように「労使紛争を予防するため」といつた極めて抽象的な文書作成目的を設定して、この目的のため作成された文書をすべて提出命令の対象としうるとするならば、現行民訴法が文書所持者と挙証者との利害を調整しようとする趣旨を没却せしめることとなるからである。百歩譲つて「労使紛争を予防するため」作成された文書も提出命令の対象となると解しうるとしても、このことは労使の法律関係を明白ならしむるためというのと同義であるから、文書作成者が作成時において、法律関係確定のため作成したとの客観的事情が存する場合に限定されるべきところ、本件賃金台帳は労使間の法律関係確定のため作成したものでなく、その作成時において作成者が本件のような紛争を想定して、それを防止するために作成したものとはとうてい云えず、専ら使用者が個々の労働者の賃金計算上の資料として内部的な自己使用の目的で作成したものにすぎないのである。従つて賃金台帳は禀議書や日記帳などと同じく所持者の自己使用のための文書であつて、民事訴訟法第三一二条第三号の文書提出命令の対象から除外されるべきものである。
また所持者と挙証者の法律関係につき作成された文書が構成要件事実の一部につき作成された文書(例えば売買における申込書)を含むと解しうるとしても、このことはただちに挙証者の要証事実の一部(構成要件事実の一部)の立証に資するものすべてを含むことを意味するものではない。蓋し立証に資するものすべてという場合には、文書の範囲は無限に広がりその範囲を画定しうべくもないからである。原決定は「賃金台帳には申立人主張の債務不履行又は不法行為法律関係それ自体に関するものではないけれども申立人主張は賃金台帳を比較対照することにより明らかになりうる」というのであるが、これはつまるところ、賃金台帳が挙証者の立証に資するものであるというだけのことであつて、かかる判断基準からいえば提出命令の対象文書の限定基準は無きに等しく、前述した民訴法の本来の趣旨に反するものである。
結局、原決定のうち賃金台帳につき、同条同号後段の文書に該るとして文書提出を命じた部分は、右法条の解釈を誤まつたものであり、その取消を免れえないものである。
三、さらに原決定は、抗告人に対し、賃金台帳の提出を申立てた相手方以外の労働者(別紙目録(二)記載分)の賃金台帳についても、その提出を命じているのであるが、そもそも賃金台帳は前述の如く各労働者毎に賃金計算の基礎となる事項および賃金の額を記載するものであるから、原決定のように、相手方以外の労働者の賃金台帳までもが相手方にとり「挙証者と文書の所持人との間の法律関係に付き作成せられた」文書であると解釈することは、民事訴訟法第三一二号第三号後段にいう「挙証者と文書の所持人との間の法律関係に付き作成せられた」との法文を全く無視するものであつて、前記同様、現行民訴法が文書所持者と挙証者との利害を文書の限定を通じて調整しようとする趣旨を没却せしめるものと言わざるを得ない。そのことは、近時の高裁決定(名古屋高裁昭和五一年一月一六日決定・労働経済判例速報九一九号三頁)においても明言されているところであつて、原決定はこの点においても法令の解釈を誤つているものである。
四、原決定の別紙目録(二)の人員には、抗告人会社従業員でないものが多数含まれている(従業員である者に〇印を付した)。また宇根憲治は相手方が大学院課程終了者として申立時に除外した平田毅八郎と同資格者である。
五、よつて原決定は右に述べたとおり不当であるから抗告の趣旨記載の裁判を求めるものである。
抗告理由の補充
一、原決定の従業員氏名中に、抗告人会社の従業員でないものが多数含まれている理由は、原審が昭和四一年当時の資料(疎甲第三四号証)を採証の基礎としたからである。抗告人会社は昭和四三年六月二七日付で販売部門を分離し、同部門は同日付で分社してダイハツ自動車販売株式会社となり、現在資本金二五億円、従業員約八六〇名の独立した法人として運営されている。そして同社設立時に抗告人会社の従業員の多数が退職して右ダイハツ自販に就職している。また昭和四一年以来今日まで、十数年を経過しているので、退職者も少くない。このような理由から、原決定の名簿には従業員でない者が多数含まれているのである。
二、抗告人会社は労基法所定の賃金台帳を常備しているが、各従業員について入社以来の台帳を常備している訳ではない。
抗告人会社では書類について整理、保管、保存の要領を定めているが、「採用、給与等に関するもの」は三年保存書類とされており、賃金台帳はこれに当るものである。しかし実際は会社の経理等内部的に必要が生じる点を考慮して、五年保存書類と定められている「税務に関するもの」として取扱われている。したがつて、昭和四八年以前のものについての保存は確実を期し難い事情にある。
三、本件の証拠保全の申立をみると「証すべき事実」としては「申立人(相手方)と、別紙目録二記載の従業員らとの間に賃金の額において差があること及びその程度」とあるだけで具体的に債務不履行または不法行為によつて生じた損害額を要証事実としているものではない。このように具体的な主張を欠き、具体的な主張を行う手がかりを得ることを目的とする証拠の申出はいわゆる「捜索のための申出」とされ不適法とされるものである(法律実務講座第四巻一六一頁)。相手方の申立が前記のとおり比較対象の人員あるいは書類保存年限を無選別のまま行つていることこそまさに捜索のためであつた証左であろう。
四、何れにしても本件申立は不適法であるから却下されるべきであり、仮りに認容されるとしても、抗告人会社の従業員に非らざる者や、保存のないものにまで及ぼした原決定はこの点に関して失当である。